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location:uchinome.jpトップ>ドキュメント3.11巨大津波・三陸沿岸被災地の今被災地山田町>織笠・船越

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山田町織笠地区・・・

山田中入り口のカーブを曲がると直線になる。かなり以前は道路脇が海辺であったが、今は巨大な防潮堤があり海辺は見ることが出来ない。パチンコ屋を見ながら南下する。
織笠地区 1
織笠地区 2 織笠地区 3
織笠地区 3 織笠地区 3
織笠地区 6 織笠地区 7
織笠地区 8 織笠地区 9
織笠地区 3 織笠地区 11・・・織笠漁協
織笠地区 12
轟木小学校勤務当時、子ども達にサケの飼育体験学習を進めるために漁協に出かけたことがあった。

織笠漁協を過ぎると織笠大橋になる。
織笠地区 13 橋を通過しながら右奥方向を見たら、欄干越しに被災の様子が分かる。

17年ほど前、この奥にある轟木小学校に勤務して事を思い出す。織笠川の側を通り狭い道を通勤したことが思い出された。学校近くの鮭孵化場まで津波が駆け上がり被害があったという。

高いところの道路は、三陸道の一部開通区間。


山田町船越・浦の浜地区・・・

45号線から左折し、鯨と海の科学館の方へ進む。坂道を降りるにつれてがれきの山が目に入ってくる。この場所は南北の海から大津波が入り込み中央でぶつかり合ったという。鯨と海の科学館は奇跡的に流されなかったようだが、周囲の家族旅行村の遊園地は見る影もない。左側の堤防を見ながら浦の浜の海岸の駐車場に車を止める。

目の前の老人ホームは無惨にも壊れ、屋根の上にはがれきと共に乗用車が乗っていた。あんな高い所まで津波が襲ったとは信じられない。これは、山田湾と船越湾の両方から津波が押し寄せ陸地を走り、中程でぶつかり合ったため凄い水柱が上がったと言う。そうなると、水位はとんでもない高さになったと言える。

この場所は、昭和39年に赴任した船越中学校のあった一帯である。初めて海岸の学校に赴任した私の遊びの場所でもあり、若い頃の最高に懐かしい場所である。かつての想い出の場所の変わり様をじっと見ていたら、空しさと共に涙が出てくる。ひっきりなしに出入りしている自衛隊の車両、大型ダンプの車の動き、みんな頑張っているなあと感謝の気持ち一杯になる。本当は大浦方面に行きたかったが、今回は断念し後日に訪れることにした。

浦の浜防潮堤 1・・・倒れているようにも見えるが不明、息子撮影画像から。 浦の浜防潮堤 2・・・倒れているようにも見えるが不明、息子撮影画像から。
駐車場から見た防潮堤海側の様子 1・・・一帯ががれきの集積所になっている。 駐車場から見た防潮堤海側の様子 2
駐車場から見た防潮堤海側の様子 3 駐車場から見た防潮堤海側の様子 4
駐車場から見た防潮堤海側の様子 5・・・白い建物は鯨と海の科学館。 駐車場から見た防潮堤海側の様子 6・・・荒れ果ててしまった浦の浜海水浴場。
私が赴任した昭和39年頃は、荒れ果てた砂利浜であった。海水浴など出来ない汚れた内海の奥であり、遠浅の海面には海苔の養殖棚が無数に有るのみ。

大浦地区の生徒達は、この奥にある桟橋から連絡船で通学していた。この須賀の上の方に船越中学校があったが、山田町統合中学になり間もなく廃校になった。
浦の浜須賀 1
浦の浜須賀 2 浦の浜須賀 3
浦の浜須賀 4 道路上にある老人保健施設「霞露」 1
道路上にある老人保健施設「霞露」 2 道路上にある老人保健施設「霞露」 3
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