ドキュメントに戻る


      3.11巨大津波・三陸沿岸被災地の今


ウチノメ屋敷 レンズの目 自然の表情 暮らしの表情 ウチノメアーカイブス
岩手の鍾乳洞 ほっづぎある記 心のオアシス ドキュメント

location:uchinome.jpトップ>ドキュメント>3.11巨大津波・三陸沿岸被災地の今

  サイトマップ


高田松原サイドの45号船の周囲です。左側の下まで海水が入り込んでいます。

3月11日のあの瞬間、私は盛岡市にいました。会議が終わり帰ろうと車に乗った途端ぐらりと来て、あれれと思っている内に立っているのがやっとの横揺れにおそわれました。前回の岩手・宮城内陸地震の時も、家から離れた盛岡市郊外にいて帰るのが大変だったので、慌ててR4号に出て一路家を目指しました。

停電したようで交差点の信号は一切点きません。いつもより注意してほとんどノンストップで家まで走りました。6mを超す大津波の襲来を告げるテレビを見ながら走りましたが、釜石港の津波襲来を見ていたら背筋が寒くなりました。言語に絶する津波に襲われた三陸海岸です。私の第二の故郷である陸前高田市・山田町、跡形もなく流された被災地を見るに付け言葉にならない悲しみが襲います。被災された方々の無事を祈ると共に、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

未曾有の天災とはいえ、私の第二の故郷とも言える山田・陸前高田の惨状が未だに信じられません。あれから三ヶ月近くになる今、内陸部にいる私達に出来ることは何か、何をしなければならないのか、行動に起こせない自分が情けなくもなります。

毎日の新聞を見ながら、復興していく姿と皆さんの取り組みの熱意に涙が出る思いです。言葉だけで何も出来ない自分が情けなくもなりますが、明日に望みを託して暮らしてほしいと願います。被災地の皆さんは海を目の前にして、船や漁具等が一切なくなりどうにもならない毎日です。山田当時の生徒だった方とやっと電話が繋がり、無事だよとの知らせに涙が出ました。知人や友人が亡くなりどうにもならない気持ちになっています。

海岸に行って被害の様子を見たい気持ちが多分にありますが、一年ぐらいは山越えをしない事と自分に言い聞かせています。私の心には、カメラを持って撮影したいという気持ちがあることを否定できないからです。被災地の様子は、まるで空襲の爆撃で焼け残った廃墟、コンクリートの建物しか残っていない終戦直後のような光景、これが山の向こうにあるのです。当分の間、海岸へは行けないし行ってはならないと自分の心に言い聞かせています。必ずや、物見気分になる自分があるからです。3年前の内陸地震もそうでした。


5月7日、NHKスペシャル「巨大津波”いのち”をどう守るのか」の番組があり、引き込まれるままにテレビの前に釘付けになりました。この時のナレーターの言葉が今でも耳に残っております。

『震災では、14,000人を越える方の命が失われ、今なお1万人を越える人の行方が分かっておりません。この番組では、震災当日の映像を数多く紹介いたします。当時の辛い状況を思い出し、精神的な負担を感じる方がいらっしゃるかも知れません。しかし、あの日起きたことを知ることが、今後起こりうる津波から命を守ることにつながると私達は考えました・・。』

ナレーターの言葉をかみしめながらテレビの映像に引き込まれていた私です。私にとって被災地である陸前高田市や山田町は、幼少時から終戦後まで、青年教師として子ども達を過ごした日々を通算すると20年ほどになります。文字通り「心の故郷」でもあり、しょっちゅう訪れていた場所でもあります。そんなこともあり以前のことを思い出しながら、悲惨な津波に襲われた地域の今の様子を直視することが、これからの自分の生き方に大切であることを改めて思うようになりました。

ここでは、「3.11巨大津波・三陸沿岸被災地の今」と題してページを作成してあります。奇しくも大津波から二か月経過した5月11日、盛岡市から宮古市に入り、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市を走り抜けて撮影しました。車から降りたのは、宮古市鍬ヶ崎・なあど、山田町船越地区だけです。他の地区は全て車の中からの撮影で、助手席にいた息子の撮影した画像からも選んであります。

撮影条件が良くないのですが、その点をご理解下さい。画像処理については、サイズ変更と青っぽい色調補正、傾いた画像を修正する程度に抑えました。また、各地区の死者等の数は岩手県警5月30日発表のものを利用いたしました。訪れた地区のサムネール画像とタイトルがありますので、クリックしてお進み下さい。全地区完成には少々時間がかかると思われますがご理解下さい。



無惨な魚市場の様子です。 宮古市・・・


死者・・・415名、行方不明者・・・355名、家屋倒壊・・・4,675棟


鍬ヶ崎にある宮古魚市場の様子。なあどのあるところから、鍬ヶ崎魚市場前を通り浄土ヶ浜に抜け、藤原海岸、津軽石方面へと抜けました。
私の想い出の場所、浦の浜はがれきの置き場になっています。この科学館を残しさっぱりと流されていました。 山田町・・・

死者・・・575名、行方不名者・・・296名、家屋倒壊・・・3,184棟

船越地区にある鯨と海の科学館の様子。

大沢から山田町中心地に入り、織笠、浦の浜、前須賀を通りました。

かつて生活していた田の浜や、大浦地区には入っていません。
45号線下のキャンプ場、松の木が半分ぐらい無くなっていますし、波打ち際が近くなったようです。 大槌町・・・

死者・・・773名、行方不名者・・・952名、家屋倒壊・・・3,677棟

片寄せ波で有名な吉里吉里(きりきり)海岸の様子。

吉里吉里を通り、大槌バイパスを通りました。
沿岸地区の運転免許センターと警察です。かつてここで免許更新をしたことがあります。 釜石市・・・


死者・・・853名、行方不名者・・・453名、家屋倒壊・・・3,723棟

大型船が寄港する側にある釜石警察署と運転免許センターの様子。

鵜住居、両石、そのまま市街に入らずに平田方面へと抜けました。
盛駅から中心街に向かいますが周囲はがれきだけでした。 大船渡市・・・

死者・・・318名、行方不名者・・・149名、家屋倒壊・・・3,629棟

大船渡市街の様子。

ほとんどの車輛はバイパスを通りますが、わたしは旧45号を通りました。途中で交通止めになり、バイパスに戻りました。
周辺の建物は流され、トイレと本館に残っていました。驚いたのはこの後ろが間に打ち際になっていたことでした。

 

陸前高田市・・・

死者・・・1,506名、行方不名者・・・652名、家屋倒壊・・・3,341棟

高田松原側にある道の駅の様子。


自動車道を走らずに45号を走り、米崎、道の駅方面、交通止めなので竹駒を通り住田町に抜け家に帰りました。

小友地区や広田には入りませんでした。


おわりに・・・

ここまでまとめるのに23日ほどかかったが、テキスト文を書きながら様々な想いが去来する今である。私の役目は何なんだろうか。それは、撮影した画像をレイアウトし、HPの画像を通して皆さんに現地の様子を知っていただく事である。ご覧になった方の想いはそれぞれだろうが、私は自分の目で見てカメラで記録した画像を忠実に伝えることに徹したかった。したがって、説明記事には可能な限り感情を込めないように配慮したことをお断りしたい。

全行程400kmほど、撮影した画像は460コマぐらいになる。ほとんど車から降りないで、と言うよりも降りて撮影する事は良心がとがめたからである。走行中と言うこともあり撮影条件は最悪、ほとんどがフロントガラス越しの撮影になった。ピンぼけ、フロントガラスの反射が写り込む、角度が傾いている等々いつもの画像とは違うが、私にとっては貴重な現実の姿の記録である。

助手席の息子にも手伝って貰い、左手横や助手席正面から撮影する。残念なことだが、息子にはファインダーを見ても景色は分からない。通過する地域の被害状況を説明しながら走ったが、息子が以前見ていた現地の様子を思い出し、未曾有の大津波による被害を想像するしかない。

大津波に関する当日の悲惨な被害の様子が、今までとは違って映像や画像でかなり多く公開されているし、特集記事が新聞各社から多数発刊されている。被害の詳細や詳しいところはそちらを参考にして頂きたい。また、解説記事の中での誤りや不適切な表現が多分にあると思われる。ご指摘等を頂ければ幸いである。

最初にも書き記したが、終戦前後から生活していた陸前高田市広田地区、青年教師として多感な中学生と過ごした陸中山田町・船越地区に想い出が一杯残っている。震災後3ヶ月を過ぎた頃、高田松原と山田町を直接訪れ、車から降りて在りし日の想い出を辿りながら撮影してきている。しかし、一番の想い出の場所である広田地区には未だに行けないのが心残りである。

毎日の新聞報道やテレビの特集番組で、日に日に復興へと向けて進んでいる被災地の様子が取り上げられている。安心して暮らしていける将来へ向けた町づくり、壊滅状態になっている沿岸各地の整備等々、国レベルでの巨大プロジェクトである。今後の復興に向けて、私達がどのような支援の手をさしのべることが出来るのか。悩みは皆さん同じであろうと思われる。(H23.06.23記す)