三陸沿岸被災地 その2・山田町船越に戻る

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船越漁港・・・

何年ぶりでしょうか、懐かしい田の浜海岸(岸壁)に出てみました。昭和40年代の頃は、はコンクリート岸壁の部分と砂浜が残っていました。

大津波震災以前は、この岸壁に中型の漁船等が係留されていましたが、今は一隻も係留されていません。かつて漁船を係留していたロープだけが空しく残っていました。

船越漁協の建物は残っていましたが、津波の直撃を受け今に解体されるものと思われます。
船越漁港の様子 1・・・漁港北側方向。
船越漁港の様子 2 船越漁港の様子 3・・・漁協の建物と南側方向。
船越漁港の様子 4 船越漁港の様子 5・・・中央に水門があり集落につながります。
船越漁港の様子 6・・・荒神神社方面に向かう海岸線。 荒神海水浴場に向かう道路です。一番奥には荒神神社がありますが、ここも津波に襲われかなり破壊されたたと言います。

丁度突き当たり付近には、海辺の公園的施設「しもかわ公園」がありましたが跡形もなくなっています。

若い頃この地で生活した私にとって、撮影するポイントが沢山あり夢中になってシャッターを押しました。もちろんですが、白黒画像であり全部自家現像でした。

14:41 田ノ浜集落・・・

漁協前の防潮堤水門をくぐると田ノ浜地区の家並みが見えてくるはずでした。しかし、かなり上の方まで津波に襲われ土台しか残っていません。上の道路は田ノ浜地区の中心地でした。津波はこの道路の下まで到達し、壊滅的な状態で言葉もありません。

若い頃に下宿でお世話になった家の通りは無事のようです。今回は遠くから見上げて上の道路には入りません。瓦礫はかなり片付けられていますが、今なお重機が入り作業中でした。このような状況は三陸沿岸各地に共通しますが、これからどの様にして以前の生活を取り戻し漁業に生きる集落になった行くのか、大変な時間と費用がかかると思われます。

田ノ浜集落 1 防潮堤水門をくぐり出た場所の右側の様子です。土台らしき基礎だけが残り、瓦礫は撤去され更地同然になっています。

大型重機が作業中であり、まだまだ時間がかかりそうでした。
田ノ浜集落 2 田ノ浜集落 3
田ノ浜集落 4 海岸から真っ直ぐ上の通りまで延びる道路です。この地で生活したのは昭和40年頃ですから、あれから46年前後経過しています。

毎日この道路をバイクで走り、浦の浜にある中学校まで通勤しました。担任した生徒の家もこの付近にあり、家庭訪問をしたことなどが思い出されます。
田ノ浜集落 5 上の集落中心地道路付近の家並みです。海岸からの道路を上りきるとT字路になり、右側の方に進むと国民宿舎「たぶのき荘」がありました。

また途中には銭湯があり、よく入りに行きました。お世話になった下宿屋のご主人は、アワビやウニを捕る達人であり口開けの時にはご馳走になったものです。
田ノ浜集落 6 田ノ浜集落 7
田ノ浜集落 8 瓦礫等の撤去が終わり、道路とその両側にある家並みの土台のみの様子です。想定外の大津波とは言え、防潮堤を乗り越えて集落に達しています。かろうじて原型を留めているのは、鉄筋が基礎になった家だけでした。
田ノ浜集落 9 従来の狭い道路を走り戻ることにしました。この場所は田ノ浜集落への入り口付近になり、以前から狭い場所でした。

小高い斜面があり、下まで津波が来ていた様子が分かります。どこの地区でもそうですが、海水に漬かった部分の立木や下草が茶色に変色し枯れています。
田ノ浜集落 10・・・風にはためく可愛いコイノボリ。 家並みがあった場所には土台しか残っていません。瓦礫の側に小さな鯉のぼりが風に揺られて動いています。

五月からのものがそのままになっているのでしょうが、地域の皆さんの様々な願いと思いが込められて居る・・、そんなことを想いながら感無量になって眺めていました。
田ノ浜集落 11・・・正面の大きな木はタブの木です。 正面に見えている大きな木は、船越が北限と言われる「タブの木」です。根元の方が津波に襲われたはずですが、枯れることはないようです。

入ってきた道をそのまま戻りR45号に出ましたが、浦の浜や、最後の勤務地で三年間暮らした大浦地区に足をのばすことが出来ませんでした。

年内には訪れなくては・・、そんなことを想いながら織笠地区を経由して山田駅方面に向かいました。
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