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    2010岩手藤沢町長徳寺・不動尊蘇民祭


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                 ・不動尊蘇民祭


 サイトマップ


不動明王堂から見下ろした燃えるサイトギです。
蘇民祭に惹かれるようになった私は、冬の時期になると題材を求めて家の近場で開催される蘇民祭を訪れています。HPを作成する以前は、蘇民祭があることは知っていても厳冬期の夜間に撮影するために訪れることはありませんでした。偶然の機会でしたが、岩手県文化財愛護協会編の「岩手の蘇民祭」を手に入れ調べてびっくりしました。

岩手県には、現在実施(執行)されている蘇民祭が十カ所あり、岩手県中央部から南部にかけて行われていることを知りました。旧藩政時代で言うならば、私が住んでいる江刺は伊達藩の最北部、お隣北上市は南部藩になります。何故か分かりませんが、蘇民祭は境界線上にある水沢の黒石寺が発祥の地らしいのです。

すでに県内の著名な蘇民祭は終了していますが、3月初め現在でまだ二カ所で未実施でした。3月7日は藤沢町長徳寺、17日は早池峰神楽で有名な早池峰神社蘇民祭が行われる事をネット資料等で知りました。

蘇民祭は、厳冬期の夜間に行われる男衆の荒々しい水垢離や蘇民袋争奪戦で知られています。今回訪れた長徳寺・不動尊蘇民祭では、蘇民袋争奪戦が行われず和やかな雰囲気の中での御祈祷が中心です。御祈祷終了後は、プロの落語家を招聘しての「寄席」が組まれていました。

ここでは、不動尊蘇民祭の様子を別当・鬼子登りと護摩木を燃やしての祈祷の様子から紹介いたします。なお、解説文作成には、私が現場でお聞きしたことや感じたこと、また、岩手県文化財愛護協会編の「岩手の蘇民祭」を参考にしていることをお断りいたします。


長徳寺旧参道入り口・・・

岩手県最南端に位置する藤沢町ですが、長徳寺のある保呂羽地区へは今まで訪れたことがありませんでした。街の中心部から東側に折れ、しばらく走ると保呂羽地区に入ります。

道路沿いに大きな旗と幟が見えてきた。ここからはすごく狭い田んぼ道、そして山道になっています。すれ違い等はほとんど出来ない山道、無理をして上っていったら寺が見え広い駐車場に出ました。私が走った所はどうやら旧参道であり裏道のようでした。正規の参道は寺の南側にあり、立派な舗装道路がありました。

旧参道入り口、狭い山道ですが私はここから入りました。
南側にある舗装された新しい参道入り口です。 参道から寺境内に入る道。
駐車場から山門と本堂を見る。 駐車場は広かったが、どんどん車が入り埋まっていきます。ほとんどの方が今日の助っ人のようであり、庫裡の方に入って行った。

まだ時間的に早かったこともあり、寺の方に出て様子を見て歩く。長徳寺は「時宗」であり正面に山門、その奥に本堂、左側には幟が沢山立てられている不動明王堂、右側には新しい庫裡があります。

寺正面左には「一遍上人」の像が建立され、その奥にはシートがかけられたサイトギ(松を割った木)が組まれてあります。


時宗 不退山「長徳寺」について・・・

本寺の起源を古書に求むれば、遠く元慶(877)の古と伝ふるも詳ならず、其の後しばらくして玄明律師なる行者の創立になると伝ふ。当時は吉野屋敷佐藤氏の菩提寺として、保呂羽院之沢に建立され天台宗三文寺と称せられしが、同氏の庇護途絶えたる時廃寺になりしと云ふ。

其の後嘉慶二(1387年)年、藤沢本郷藤勢寺に、第九十代亀山天皇第三の皇子一品式部 常盤井恒明親王第四の御子尊観法親王御法体とならせられ、本山第十二世として遊行廻国の途次、この廃寺を訪れ之を再建し、一宇を建立宗旨も時宗に改宗寺号も長徳寺と改められ本寺の基定まれり。(※長徳寺HPより抜粋)


大聖不動明王尊・・・

当山に安置し奉る大聖不動明王は慈覚大師(天台宗延暦寺第三世座主)の御作に成るものにして、古は西磐井郡花泉町油島、白山姫神社(林泉山白王寺)道場に本尊として安置せられたるを、明治三年神佛分離令に依り明治八年同町曹洞宗満昌寺に移奉された。

しかし、明治二十六年たまたま同寺火災の為全焼せる時、当不動明王はその広大なる神力により火炎の中に在りても、なほ巍然として大魔を退散せしめ災厄を免れ得た。御縁あり明治二十七年秋当山にて御招請奉安せるものなり。爾来百十有余年郷内諸災難消除、五穀豊穣、家内安全の御利益広大なるを・・・以下省略(※長徳寺HPより抜粋)

高い場所から俯瞰する・・・

境内脇には墓地に向かう坂道があり、ここを上り全体の様子を観察してみました。

ちょっと見たときは墓地が見あたりませんが、上の方に上ったら墓地が沢山ありました。

庫裏とサイトギの間は40mほどあり、この場所を松明を先頭にして行列が進んできます。
境内の様子 1・・・上の通路から見下ろした様子。大きな旗と赤い幕が張られている場所が不動明王堂です。
境内の様子 2・・・正面が本堂で左側が不動明王堂です。 境内の様子 3・・・本堂前の通路、奥が庫裏になります。
境内の様子 4・・・積まれたサイトギ。 松の倒木から作られたサイトギ、高さ1m位のものが二基組まれてあります。側に行くと、松の木独特の良いにおいがしてきます。

後ほどですが、たき付けになる杉の葉や小枝が置かれます。
境内の様子 5・・・本堂左にある時宗の開祖「一遍上人」の立像。何故か裸足でした。 時宗の開祖「一遍上人」の立像です。裸足で布教活動をなされたのでしょうか、普通に見られる立像では「草鞋」が一般的なのですが・・・。


そう言えば、我が家の近く(北上市国見山の麓)に、一遍上人の祖父にあたる河野通信の墓所(陸奥国江刺郡稲瀬に配流され、この地で亡くなり葬られた場所)があります。

不動明王堂・・・

不動明王堂に入って見ました。入り口から中を撮影、正面奥には不動明王像、その前に護摩祈祷場所と導師が座る場所があり、床には座布団が二列に敷かれてあります。

入り口右上には、過去の蘇民袋の取り主の名が記入されて掲げられてありました。
不動明王堂 1・・・正面からの様子。
不動明王堂 2・・・お堂の中で、正面に不動明王が安置されています。 不動明王堂 3・・・過去に行われた蘇民袋取り主の名札。

庫裏の前・・・

庫裏の入り口です。私が訪れたときは、この中で祈祷受付をしていました。直接関わりのない私は、中に入りませんでした。

十二時半からの「寄席・林家久藏独演会」の文字が光っていました。右側の張り紙には、小さな文字で「別当・鬼子登り、御祈祷」と書かれてあります。
庫裏玄関です。この中で御祈祷の受け付けが行われていました。
蘇民祭で手にする道具の色々です。 庫裏の軒下には、蘇民祭用のおなじみの道具が並べられてありました。画面左から、葦で作った松明、松の木の松明、角灯、手木と並んでいます。

解説書を参考にすると、松明の二本には大小があり、手木の一本は柄の部分に皮が残り、もう一本は完全に皮が剥かれてあります。

角灯も手木も、大小の二本を作ることが大切である・・と書かれてありました。
願い等が書かれた角灯です。昼ですから灯りはありませんね。 松明の柄に書かれた諸難消除の文字が見えます。
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