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   2012二戸市呑香稲荷神社探湯祭・参道、境内


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境内に入った右側から撮影した神社の様子
呑香(とんこう)稲荷神社・・・

呑香稲荷神は、九戸城松ノ丸跡(福岡城跡)の西側腰曲輪、旧福岡町の中心街五日町界隈を見下ろす場所に所在する神社で、この地方では特に格式が高く、南部氏にゆかりの有る神社で、かっての県社でもあり、歴代南部公が当地を通るときは必ず参拝した神社です。

二戸市内では「どんこいなりじんじゃ」と一般には呼ばれていますが、神社に伝わる正式な呼び方は「とんこういなりじんじゃ」であるということです。現宮司のお母様である小保内ミチさんの話によりますと、「とんこ」は「呑香」と書くが、「東光」の字を充てることもあり、その意味はアイヌ語で「かがやける丘」の意味であるということです。実際に神社の鳥居や参道側から本殿、拝殿は真東の見上げる位置にあり、季節によっては本殿の真上から太陽が昇ってくると言うことです。

この神社には、本殿、拝殿の他に、神楽殿や神楽堂、幕末に津軽公襲撃未遂事件を起こした相馬大作を祭った大作神社、さらにやはり幕末期に政治結社「会舗社」の活動の拠点となった場所でもあり、当時の文献を揃えた稲荷文庫や茶室を転用した学舎である槻陰舎(二戸市指定文化財)等が残っています。(※二戸市HPより)


由緒・・・

南部氏の幼君の疱瘡が、枕元に立った「稲荷大明神なり」と告げる白衣白髪の老人のおかげで平癒したことから、 呑香稲荷大明神の神号が与えられたと伝えられています。以来、代々南部氏から厚く信仰され、社殿や神楽面、御輿などが寄進されています。(※二戸市HPより)


二戸インターからここまではナビに入力して走りましたが、R4は通らずに九戸城趾に向かう最短距離で5kmほどありました。途中、以前に訪れた「末の松山層」の下を通りましたが今回は素通りになりました。呑香稲荷神社は九戸城趾南側に位置する松の丸跡麓にあり、境内には二戸市歴史に関係する方を祀った神社や、世界的に有名な田中舘愛橘博士の碑文等があります。

トップの画像は60段の石段を登り、境内に入った右側から撮影した神社の様子です。神社左側には小さな赤鳥居が数多く並び、鳥居のトンネルくぐった先には小さなお稲荷さんが祀られてあります。


参道・・・

参道向かい道路から見た神社入り口です。大きな鳥居には、呑香社と書かれた扁額があり、左側には大正元年九月に建立された「縣社 呑香稲荷神社」と刻印された石柱が立っています。

駐車場所としては狭いのですが、奥に車を置き正面の石段を登り境内に入りました。道路に面した入り口参道から60段の石段を登ると、市内を見下ろせる高台に神社が鎮座しています。
参道 1・・・入り口にある大鳥居、呑香社と書かれた扁額があります。
参道 2・・・数台しか置けない駐車場でした。二の鳥居から急な石段になります。 参道 3・・・石段を登り振り返ると眼下に街並みが見えます。

境内・・・

九戸城趾「松の丸跡」一角に神社が建立されています。神社左側には小さな赤鳥居が数多く並び、鳥居のトンネルくぐった先には小さなお稲荷さんの祠があります。
呑香稲荷神社本殿。
稲荷社と書かれた扁額。 拝殿正面にある扁額に、稲荷社と書かれてありました、光線状態がおかしいのか、画面上にフレアが出ていますがご容赦下さい。
社務所の様子 神社南側から見た境内の様子です。正面の二階建てが社務所であり、社務所前には縄が張られています。

最初に社務所に挨拶をし、下の駐車場居車を置く許可を頂き、今日の「探湯祭」の撮影許可を頂きました。

今回は神事への玉串料は失礼しました。したがって、拝殿内への立ち入りと撮影は遠慮しました。

「神事は十一時からですから、上の広場のサクラを見ていて下さい・・」とお話しされています。
境内北側にある探湯祭の場所。 神社北側から見た境内の様子です。

社務所の前には注連縄が張られた場所があり、神社側に祭壇、中央には釜が置かれ、縄の中は砂が撒かれています。砂場の上には竹ほうきが置かれてありました。

時刻が九時を過ぎた頃であり、誰も訪れていない境内です。


稲荷神社分社・・・

本殿左側には小さな赤鳥居が数多く建てられ、鳥居のトンネルと言えそうです。ここを通り抜けた場所に祠があり数多くのキツネの置物が祀られています。

大きい狛犬大の置物、可愛い瀬戸物のキツネ等が数多くありました。




赤鳥居のトンネル
鳥居を出た場所に分社がありました。 中には大小色々のキツネの置物が祀られています。

境内にある歴史的建造物・・・

境内の南側には、九戸城に関わる人物の社が建立されています。この場所は九戸城趾松ノ丸内にあり、案内表示の石柱と案内図やその場所の説明文等が書かれてあります。

ここでの説明文は、境内にある案内板からのものです。
神代神楽が奉納される神楽殿。 神楽殿・・・

今回は神楽の奉納等はありませんが、ここで舞われる神楽は神代神楽と呼ばれる奉納神楽だと言います。九月の例大祭で奉納されるとのことでした。

機会があったら訪れて撮影したいなと思います。
六角神輿・・・中に神輿が保存されています。 六角神輿・・・

呑香稲荷神社は社伝によると、延歴二十年(801)または承和年間(834〜)の頃、出羽国の大物忌神社を勧請したのが始まりと言われ、天和二年(1682)、小保内源左衛門が霊夢により現在の地に遷座したと伝えられています。

藩政時代は盛岡藩の祈願所となり、例祭は千石格式で数十名の武士が前後を警護し、神輿渡御が行われていました。この神輿は宝暦十三年(1763)、第三十四代藩主南部利雄公が寄進したと言われ、形状的にも珍しく貴重なものです。

稲荷文庫 稲荷文庫・・・

文久二年(1862)、呑香稲荷神社境内に設置された盛岡藩最初の施設図書館です。書籍購入のまた、稲荷無尽講を立て、その費用に充てたそうです。稲荷文庫は、二戸地方の人材育成と地域の振興を目指した会輔社の活動の一環として開かれ、会輔社の社員やその子ども達に図書を貸し出しましたが、、次第に周囲の村々の人々も利用するようになりました。

蔵書は和漢書数千巻と称され、利用者は馬を仕立てて、遠くは秋田県鹿角地方にまで及んだと言われています。

大作神社 大作神社・・・

北方防備論を唱えた幕末の志士相馬大作、本名・下斗米秀之進は、南部公への忠義心から津軽公に隠居を勧告しようと襲撃未遂事件を起こしますが、捕らえられ江戸で斬首されました。

その思想や行動は当時の人々に賞賛され、文武両道の神として奉りあがめられています
九戸政実神社 九戸政実神社・・・

九戸誠実が斬首された三の迫(宮城県栗駒町)の九戸神社から分霊して九戸城二ノの丸跡にも同神社が建立されましたが、老朽化等に伴い平成十三年にこの場所に移築新築されました。 (※九戸城を活かす会)
田中舘愛橘博士のローマ字碑文。 田中舘愛橘博士碑文・・・

心ある 人の宴の夜神楽に こだまにぎわう 呑香の杜

田中舘愛橘  大正15年4月7日

大正十五年早春、田中舘愛橘博士の古希を祝い、郷里福岡において有志による祝賀会が開かれました。このローマ字の和歌は、祝宴に招かれた博士からのお礼の手紙に書き添えられていたものです。

この和歌は流麗なペン字で書かれており、郷里福岡の情景と人々への感謝の気持ちが強く表れています。
(※裏に書かれた説明より)


松ノ丸跡に登る石段 松ノ丸跡に登る石段・・・

たっぷりと時間がありましたので、社務所の方の薦めもあり上の広場まで出かけてみました。かなり広い場所ですが、桜の花が満開でゲートボール場がありました。

ここまでの進入路があり、祭典等の場合は駐車場になると思いました。古い石碑や忠魂碑が建立されています。

松ノ丸跡・・・、松ノ丸とよばれ、九戸城落城後に福岡城の主郭あるいは御仮屋として南部藩主が居た場所です。九戸城と福岡城の正確な位置関係はまだ不明ですが、盛岡城が名実共に南部の主城となるまで二十年の間南部藩の根城でした。
広場に立つ標識 広場は桜が満開でした。

九戸城趾案内図・・・

九戸城趾には今まで二回ほど訪れて撮影していますが、今にして思うにメインの大手門跡から入り二ノ丸跡、本丸跡搦手門跡(この広場が駐車場)だけです。最初にも書きましたが、呑香稲荷神社が鎮座する二ノ丸跡は本丸跡から歩くとかなりの距離があるようです。

いつの日にか、九戸城趾の全体像を歩きながら記録してみたいなと思います。史実を知れば知るほど悲劇の九戸城になります。全国に散らばるいずれの城跡であっても、城主と武士階級、そして一番下で支えてきた農民の生活との関わりを無視して語ることは出来ないと思われます。
九戸城観光案内図、あちこちに設置されてあります。