宿場町・金沢(かざわ)のご案内・・・
宿場町とは、もともと江戸を中心整えられた「五街道」及びそれに続く「脇街道」に、駅伝事務を扱うために設けられた町場に付けられた名称です。
そこには、きまりや命令を伝える「高札場(お札場」・公用人のための馬の継立所や宿場の公安を守る検断所そして肝いり、問屋場、宿場所等が置かれていました。当地金沢も石巻街道と東山街道の交差地として栄え、様々な役所が置かれたほか、街道の中央には堀溝が掘られ清水が絶えず流れ、馬の飲み水や防火、生活用水としても利用されていました。
さらに並木なども植えられ、景観を保つようにも工夫されていたようです。金沢の宿場町は慶長十四年(1609)に町割りが行われ、田村藩成立後の天和二年(1682)には、藩の領地を三分割して統轄し、金沢の町に流大庄屋役所(大肝入廟所)が置かれました。
また、毎月六の日には市日が開かれ、近在の人々が集まり、大変な賑わいを見せたそうです。今では、度々の大火で昔の面影を残す町並みはわずかとなりましたが、廟所道やお札場、上戸(あがと)など、当時の呼び名が伝承されています。
(※会場で頂いた花泉町当時の資料「宿場町 金沢」より)
上の二枚の絵図は、道路の一角に当時の様子を再現した絵地図が掲げられてあり、撮影した画像から切り出してみたものです。絵地図ゆかりの屋号等を撮影した画像に求めましたが、意識して撮影していなかったこともあり歴史ある古い町並みをじっくりと見てこなかったことが悔やまれます。
撮影した画像から見えてくるのは、家の門口正面に昔からの屋号と家紋が描かれた街灯(?)が掲げられている家が何軒かありました。
どこの地域にも歴史があり、私たちの先人が苦労して生活基盤を造ってきた歴史があります。時代の移り変わりと共に歴史遺産が消え去って(減少)いくのは仕方のない一面もあります。街歩きをしていて、道路脇に「***の跡」と刻まれた石碑が建っているのを見ることがあります。この石碑の前に立ち往事を偲びますと、ここで今とは違う生活が営まれていたことが思い浮かびます。古き良き時代の生活の跡を大切にすることを忘れてはならないと思います。
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