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location:uchinome.jpトップ>暮らしの表情>催しアラカルト一関市花泉町・金沢大名行列その2>その3

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街道に張られていた金沢大名行列のポスター。

金沢大名行列・・・

街道の各所に張られていた当日のポスターで、下記の文章はネット資料による当日の解説の抜粋です。

一関市花泉町金沢地区の「金沢大名行列」は16日、地区内の県道弥栄金成線で行われ、住民扮する「奴」ら総勢250人がかつて宿場町として栄えた通りを練り歩き、地元にまつわる故事を華々しく再現した。

行列は、金沢八幡神社から片道約400メートルの区間を往復。ほら貝、露払いを先頭に、毛やりなどを手にしたやっこや子供たちによる鉄砲隊、みこしなどが続いた。

このうち、黒装束を着たやっこは同神社の氏子らが代々演じており、今年は19人が参加。「セイハア、オットマカショ(お供は任せて)」の掛け声に合わせ、片足を上げる独特の歩き方で巡行。

金沢小学校児童の鶏舞や金沢保育園児の遊戯、地元婦人会らの手踊りパレードなども繰り広げられ、まつりの雰囲気を盛り上げた。

大名行列は、同地区内沢集落にある三居山に祭られていた同神社の焼失に伴い、宝暦7(1757)年に行われた遷宮の様子を再現。例祭の時期に合わせ、255年前から続けられている。


宿場町・金沢(かざわ)のご案内・・・

宿場町とは、もともと江戸を中心整えられた「五街道」及びそれに続く「脇街道」に、駅伝事務を扱うために設けられた町場に付けられた名称です。

そこには、きまりや命令を伝える「高札場(お札場」・公用人のための馬の継立所や宿場の公安を守る検断所そして肝いり、問屋場、宿場所等が置かれていました。当地金沢も石巻街道と東山街道の交差地として栄え、様々な役所が置かれたほか、街道の中央には堀溝が掘られ清水が絶えず流れ、馬の飲み水や防火、生活用水としても利用されていました。

さらに並木なども植えられ、景観を保つようにも工夫されていたようです。金沢の宿場町は慶長十四年(1609)に町割りが行われ、田村藩成立後の天和二年(1682)には、藩の領地を三分割して統轄し、金沢の町に流大庄屋役所(大肝入廟所)が置かれました。

また、毎月六の日には市日が開かれ、近在の人々が集まり、大変な賑わいを見せたそうです。今では、度々の大火で昔の面影を残す町並みはわずかとなりましたが、廟所道やお札場、上戸(あがと)など、当時の呼び名が伝承されています。

                                    (※会場で頂いた花泉町当時の資料「宿場町 金沢」より)



上の二枚の絵図は、道路の一角に当時の様子を再現した絵地図が掲げられてあり、撮影した画像から切り出してみたものです。絵地図ゆかりの屋号等を撮影した画像に求めましたが、意識して撮影していなかったこともあり歴史ある古い町並みをじっくりと見てこなかったことが悔やまれます。

撮影した画像から見えてくるのは、家の門口正面に昔からの屋号と家紋が描かれた街灯(?)が掲げられている家が何軒かありました。

どこの地域にも歴史があり、私たちの先人が苦労して生活基盤を造ってきた歴史があります。時代の移り変わりと共に歴史遺産が消え去って(減少)いくのは仕方のない一面もあります。街歩きをしていて、道路脇に「***の跡」と刻まれた石碑が建っているのを見ることがあります。この石碑の前に立ち往事を偲びますと、ここで今とは違う生活が営まれていたことが思い浮かびます。古き良き時代の生活の跡を大切にすることを忘れてはならないと思います。

宿場町絵地図
大名行列・神輿渡御の様子
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