![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
---|---|---|---|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
location:uchinome.jpトップ>暮らしの表情>催しアラカルト>奥州市胆沢区・徳水園放水式>その2 |
サイトマップ |
会場で頂いた資料の中に、放水式の由来について解説があり読んでいたら引き込まれてしまいました。この地で米作りをしていた先人たちの間で、冷害・干害のない豊作な年であるように祈ってきた神様(作神様)が、猿岩の頂上にまつられている於呂閇志神社のことだと言います。ここに参拝し、つばきの切り枝とささ、神符をもらいに来ていたと言います。遠くは山越えをして、お隣秋田から来られていたと言いますので驚きでした。 まだ猿岩までは行けませんが、道路が開通したら山頂にある於呂閇志神社奥の宮を参拝したいなと思いました。 放水式・・・ 田越しが済むと待たれるのは、作神さまのお祭りでした。作神様とは、猿岩の頂上にまつられている於呂閇志神社のことで、祭神は木花咲耶姫ほか七柱の神、祭日は5月19日(注・現在は4月29日)でした。この日になると郡内はもちろん、遠くは秋田の農民たちまで、豊作を祈って参拝し、つばきの切り枝と、ささと神符をもらいに来ました。秋田の人たちは、ぼんでん(幣束のこと)を担いで峰を越え谷を渡り、夜を徹して来たものだということです。 神社からいただいたつばきとささと神符は、水口田の田植えが済むと、水口にさしておきました。害虫や病害よけになると信じられていたためです。こうして農民たちは、一粒でも多く収穫できるように願いを込めておりました。 昭和33年国営事業で円筒分水が見事な造形美を見せ完成すると、胆沢平野の開祖、後藤寿庵、千田左馬、遠藤大学ら四先覚者の功績をたたえ、その遺徳を永遠に伝えるため、昭和36年この地(徳水園昭和34年造成)に、四先覚者の碑を合祀しました。 放水式は冷害、干害のない豊作な年でありますようにと、水利組合当時より豊穣を祈願する行事として行われております。 |
![]() |
円筒分水工から勢いよく流れ出た水は、下流にある約1万ヘクタールの胆沢平野の田んぼに流れ込み秋の豊作を約束します。円筒分水工は、胆沢平野の農業用水を公平に配分するための分水施設であり、先人達が造りあげた「寿安堰」や「茂井羅堰」を経由して広い田んぼを潤します。胆沢ダムの完成は、今まで以上に農業用水や工業用水に使われます。 中央部にある円筒部、今は水路の末端にある田んぼまで通水するために水量が多く、見ていると荒れ狂った流れに見えてきます。可能な限り接近し引きつけて撮影しましたが、普段はこのような撮影は出来ません。間違って落ちたらどうなるのだろう、怖いなあと思えたほどです。 |
← 前のページへ | 次のページへ → |