メモリアルシップ・八甲田丸に戻る
在りし日の青函連絡船
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在りし日の青函連絡船・・・ ここからの画像は、私が学生時代に撮影したネガを探し、フィルムスキャナーで画像化したものから選んだものです。撮影年代は昭和32年8月、浅虫研究所での生物学実習の帰りに青函連絡船で函館まで移動した時のものです。フィルムネガは見つけたものの、肝心のフィルムスキャナーが思うように起動しません。しばらく使用していなかったこともあり、ゴミ掃除、接点をアルコールで洗浄したり、悪戦苦闘の末起動するようになりました。 |
ネガに残されていた五稜郭の画像・・・ たった三コマだけですが、函館五稜郭の画像が見つかりました。画像の説明文にも書きましたが、ほとんどと言うほど記憶が残っていません。残念ですが仕方ありません。 |
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函館で見学したのが五稜郭です。 |
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五稜郭入り口の堀にかかる太鼓橋です。 |
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何故か残されていた大砲の画像がありました。 |
五稜郭・・・ 五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に幕府が崩壊、短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。 箱館戦争当時の大砲五稜郭に配備されていたものではないが、箱館戦争で使用された大砲が2門、郭内に展示されている。1門は、旧幕府軍が箱館占領中に構築した築島台場に備え付けられた砲(英・ブラッケリー社製で、もう1門は明治2年5月11日の箱館湾海戦で沈没した新政府軍の軍艦・朝陽の砲(独・クルップ社製である。 現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた。なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、1950年(昭和25年)から1980年(昭和55年)までは太鼓橋が架けられていた。 (※ウイキペディアより) |
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