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         在りし日の青函連絡船


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四本煙突の羊蹄丸、バックしているように見えますが前進で出港です。

在りし日の青函連絡船・・・

ここからの画像は、私が学生時代に撮影したネガを探し、フィルムスキャナーで画像化したものから選んだものです。撮影年代は昭和32年8月、浅虫研究所での生物学実習の帰りに青函連絡船で函館まで移動した時のものです。フィルムネガは見つけたものの、肝心のフィルムスキャナーが思うように起動しません。しばらく使用していなかったこともあり、ゴミ掃除、接点をアルコールで洗浄したり、悪戦苦闘の末起動するようになりました。

58年程前のネガフィルム、自家現像のネガですがあまり荒れていない状態で画像化できました。しかし、肝心のその時の様子がどうしても思い出せないのです。記憶に残る青函連絡船は、もの凄く長い駅のホームを走るようにして移動したこと、三等船室が畳敷きで狭い場所にぎっしりと座っていたこと、下船しても身体がしばらくゆらゆらしていたこと等が想い出されるのみです。

その時撮影した青函連絡船の様子が、古いネガの中から見つかりました。乗船した連絡船の名前は、ボートやイカダに記されたローマ字から十和田丸と判断できました。ネガのコマを精査していたら、目の前を移動していく四本煙突の羊蹄丸の姿を見つけました。58年ほどの前のことでもあり、自分が乗船した連絡船の名前がすぐ思い出せなかったりして、我ながら年をとったものだなあと情けなくなります。

トップの画像は、昭和32年8月に撮影した青函連絡船「羊蹄丸」の出港時の姿です。

                                                       2015.10.25 作成



出港時の様子

この状態でははっきりしませんが、タグボートに引かれて離岸する様子です。

タグボート後部から、ぴーんと張ったロープが見えています。

出港している港は青森なのか函館なのか、残念ですが今の私には思い出せません。

何となくなだらかな山肌から判断して、青森港なのかなあと思いますが定かではありません。
中央に見えている半島部分、青森湾の出口部分でしょうか。

船に乗ると、誰しもデッキの手すりに掴まって海を見ていたくなります。

手にしている瓶は、サイダーでしょうか。当時はコーラが無く、サイダーが一般的でした。
デッキは板張りであり、客船はきれいに磨かれています。

他の多くの乗船客は、三等船室の場合は畳敷きの広間状態の場所でした。
私の好きな船尾の様子です。大型のスクリューでかき回された水が、勢いよく渦を巻いて飛び散ります。

その反動で船が進みますが、船尾の遙か後方まで白くなっているのが分かります。

本当はこの様子を眺めていると、間違いなく船酔いをするので要注意です。
救命ボートといかだでしょうか、いかだが何層にも積まれているのが分かります。

ボートや筏に書かれてある船名、 TOWA・・MA
RUが読み取れます。このことから十和田丸と判断しました。

ボートを見てなるほどと思ったのが、船体脇に垂れ下がっているロープの存在です。

いざと言うときには、ロープに手が届けば掴まることが出来ます。
たまたまですが、ボートの脇に写っていた男女の姿です。あるいは全然関係の無い二人なのかもしれません。

ネガの中にあったので並べてみました。

これは函館山だと思われます。高い所にテレビ塔が見えています。

ネガの品質が良くなく、本来であればこの場に出せないのですが、貴重な当時の様子を知るコマなのでご容赦ください。

すれ違った羊蹄丸船首部分の様子です。煙突が四本で、黒い煙が大量に出ています。

この当時の羊蹄丸のエンジンはスチームエンジンであり、新しいディーゼルエンジンとは能率的にも違いがあります。

船腹にはテープが大量に飛び交い、今まさに出港したところだと思われます。
煙突の真横からの様子になります。

紙テープの流れから言うと、船体は左側に移動しています。その割に、煙のたなびきが進行方向にあるので迷います。

船室の上には救命ボートが何艘も見えていました。


ネガに残されていた五稜郭の画像・・・

たった三コマだけですが、函館五稜郭の画像が見つかりました。画像の説明文にも書きましたが、ほとんどと言うほど記憶が残っていません。残念ですが仕方ありません。

函館で見学したのが五稜郭です。

この時の一人旅では、重い実験器具等をリュックで背負っての移動でした。

掘りに掛けられた橋を渡り中に入りました。五稜郭の文字が見えていますが、それ以上の情報が定かではありません。

五稜郭入り口の堀にかかる太鼓橋です。
何故か残されていた大砲の画像がありました。

五稜郭・・・

五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に幕府が崩壊、短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。

箱館戦争当時の大砲五稜郭に配備されていたものではないが、箱館戦争で使用された大砲が2門、郭内に展示されている。1門は、旧幕府軍が箱館占領中に構築した築島台場に備え付けられた砲(英・ブラッケリー社製で、もう1門は明治2年5月11日の箱館湾海戦で沈没した新政府軍の軍艦・朝陽の砲(独・クルップ社製である。

現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっているが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていた。なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋であるが、1950年(昭和25年)から1980年(昭和55年)までは太鼓橋が架けられていた。

                                                       (※ウイキペディアより)
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