風景の表情に戻る


          2013紅葉の仙人峠


ウチノメ屋敷 レンズの目 自然の表情 暮らしの表情 ウチノメアーカイブス
岩手の鍾乳洞 岩手の蘇民祭 ほっづぎある記 心のオアシス
ドキュメント  

location:uchinome.jpトップ>自然の表情>風景の表情>2013紅葉の仙人峠

  サイトマップ


仙人大橋附近様子です。一番の見頃の場所でもあります。
紅葉の仙人峠・・・

私と仙人峠往来のお付き合いは、下閉伊郡山田町に赴任した昭和39年から始まります。内陸部と沿岸部を結ぶ有料道路でありました。遠野側からの風景はカラ松林が続き落葉樹の色合いは余り見えませんが、トンネルを通り抜けた出口から登り口の大橋地区までは色とりどりの様相を見せていました・・・。ほとんど通らなくなった仙人道路ですが、ふと思い出すと昔のことが色々去来します。

岩手の紅葉情報で必ず紹介される仙人峠です。好天に恵まれた11月初旬、六年ぶりに訪れてきました。時間が午後になり太陽高度が低下しており心配でしたが、何とか撮影することが出来ました。ここでは、遠野側のトンネル入り口付近、トンネルを抜けた場所にある休憩所(現在は工事中)、さらに下って撮影ポイントになる仙人大橋付近の様子を紹介します。

前回訪れた2008年10月の様子はこちらからご覧下さい。


遠野側の様子 1 遠野側の様子・・・

トンネル入り口左右には広場があります。右側の渓流を渡った場所にはかつての釜石街道の入り口であり、左側には軽便鉄道の終着駅があります。

今でもそれほどの変化はないと思いますが、トンネルを境にして気象条件ががらりと違ったことを思い出します。遠野側は雪が多い内陸部であり、釜石側は海岸気象になります。
遠野側の様子 2

仙人峠秘境のみち・・・

このみちは、仙人峠を登り釜石に至る旧釜石街道(全長約6km)です。仙人峠の名は、仙人が住んでいたため、また、千人の金堀人夫が生き埋めになったため付けられたといわれています。

たくさんの旅人や馬が苦しんだ街道も、昭和25年10月釜石線の開通によりその役目を終えました。全行程歩くと約3時間かかります。   ※案内板記事より

遠野側の様子 3 釜石街道 仙人峠登り口の標識です。傾いてしまった標識には・・・旧釜石街道仙人峠の集い 昭和63年8月10日遠野市・・・と書かれてありました。 
遠野側の様子 4

ちょっぴりですが、仙人峠に向かって山道を歩いてみました。案内板に書かれているデータによると、ここ(入り口標高559m)から仙人峠(仙人神社標高837m)までは2.1kmあります。仙人峠から中仙人茶屋跡までは1.1km、釜石側入り口(大橋入口標高254m)までは2.3kmあります。

かつての旅人は、必ずこの山道をを通らなければならなかったのです。平坦地ならともかく、標高800mを越す峠を荷物を背負って歩いたのですから大変だったと思われます。

この仙人峠は遠野までの最短距離ですが、鵜住居からゆったりと峠越えをする道路があり、笛吹峠と名付けられています。

遠野入り口トンネル左には広場があり、この場所はかつての岩手軽便鉄道終着駅である広場です。今では忘れ去られている岩手軽便鉄道ですが、内陸部から釜石地区への交通機関設置の要望がかなり早くからあったようです。私にとって名前しか知らない岩手軽便鉄道についてネット資料で調べてみました。記事全文は長い物語になるのでかなりカットして要点のみの紹介です。紅葉とは関係が無くなりますがご容赦を・・・。


岩手軽便鉄道・・・

岩手軽便鉄道は、後のJR東日本釜石線に相当する路線を運行していた、かつて岩手県に存在した鉄道事業者である。岩手県では、北上川沿いに日本鉄道線(現在の東北本線)が最初に開通した。これに対して三陸海岸側への鉄道の開通は大きく遅れることになり、長らく海岸と内陸の連絡は青森県や宮城県へ一旦鉄道で移動して海路を利用していた。

1912年(大正元年)9月に路線の建設工事が両端から開始された。1914年(大正3年)4月18日にもっとも終点側の遠野−仙人峠間19.3kmが東線として開通した。さらに同年12月15日、西線の晴山−岩根橋間5.8kmと東線の鱒沢−遠野間10.6kmが同時に延伸開業し、1915年(大正4年)7月30日に東線の柏木平−鱒沢間4.2kmが延伸した。同年11月23日、最後の岩根橋−柏木平間9.5kmが開通して、花巻 - 仙人峠間65.3kmが全通した。宮守トンネル (322m)、鱒沢トンネル (302m) の2箇所が難工事であったため、この区間が最後となった。こうして花巻から仙人峠までが762mm軌間の軽便鉄道で結ばれた。

また仙人峠駅から直線距離で4kmほどのところにある大橋までは釜石から既に1911年(明治44年)11月3日に釜石鉱山鉄道が開通していた。これにより、中間の徒歩連絡をはさみながらも花巻から釜石までの鉄道連絡ができるようになった。しかし標高560mの仙人峠駅と標高254mの大橋駅の間の標高差は大きく、さらに間に標高887mの仙人峠があることから、この間を直接鉄道で結ぶことができなかった。

一方旅客は、仙人峠を歩いて越えていた。仙人峠駅からは峠まで2.1kmを上がり、そこから九十九折の急坂を大橋駅まで3.4kmの、あわせて2時間半から3時間かかる道のりであった。続いて1936年(昭和11年)第69回帝国議会で岩手軽便鉄道の国有化が決定され、国鉄釜石線となった。

国有化後は第二次世界大戦中の中断をはさみながら762mm軌間の1,067mm軌間への改軌が進められ、さらに仙人峠を越える鉄道の建設が行われて、1950年(昭和25年)10月10日に花巻−釜石間が全通している。

※ウイキペディアより抜粋紹介

岩手軽便鉄道跡 1 岩手軽便鉄道と書かれた角柱がぽつんと立っています。右手奥には峠越えの道路でしょうか、車が通れる道路が延びていました。

石碑には、早瀬観音と刻まれています。
岩手軽便鉄道跡 2 上の方に線路が敷かれていたとおもわれる地形があり、今でも残るコンクリートの斜面が残っています。

当時を知る古い写真等があればはっきりしますが、

釜石側の様子 1 釜石側の様子・・・

トンネルを抜けた場所は直角カーブの難所です。トンネル口南側に広場があり休憩所になっています。この広場から見下ろすと、遙か下に迂回して走る道路が見えてきます。

午後二時を過ぎていたこともあり、太陽高度が低くなり谷底までは日光が届きません。
釜石側の様子 2

釜石側トンネル出口の休憩広場からは、地形の関係で谷底がよく見えません。交通量も少ないので通行車両に配慮しながら道路を下ってみました。

カーブの部分に見通しの良い場所があり、遙か下の仙人大橋付近までが見えてきます。

釜石側の様子 3 釜石側の様子 4
釜石側の様子 5 中央左のカーブに、仙人秘水工場入り口の看板があったと思います。ここで生産された秘水は全国各地に出荷されています。
釜石側の様子 6

休憩広場まで戻りながら、トンネル入り口付近を見上げた様子です。

麓の大橋地区から一気に標高差がつき、車は喘ぎながら加速し急坂を登ります。今は車が大型化しエンジンに余力がありますが、車に乗り始めの頃は360ccの軽自動車でした。ここまで登ってきてトンネル入り口を見てほっとしたものです。

トンネルの中は空気が澄んでおり、出口がポッカリと見えています。

釜石側の様子 7 釜石側の様子 8
                        次のページへ →