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location:uchinome.jpトップ>自然の表情>風景の表情>2016桜まつり・アラカルト>江刺区・館山公園 |
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江刺区・館山公園・・・ 家から10分ぐらいの場所にある館山公園(藤原御館跡)は、歴史的に意味のある憩いの場所でもあり、藤原三代の始祖でもある藤原経清とその子藤原清衡父子の居住した場所としても知られています。 公園内には江刺区岩谷堂周辺の館山、向山両岸を繋ぐ平成11年(1999)の完成江刺夢乃橋があり、橋の上からは市街地と焼石連峰の山々、歴史公園・藤原の郷を一望することができます。 藤原御館跡・・・ この地は古来御館山とよばれ、平安時代末期、藤原経清とその子藤原清衡父子の居住した砦館の跡とも伝えられ、大規模な土塁や城砦の遺構と堀の一部が現存している。 経清は、百足退治の伝説で知られる田原の藤太秀郷の子孫といわれ、陸奥の国司に従って奥州に下り、初の宮城県亘理地方を支配して亘理権太夫と呼ばれたが、後に俘囚の長と言われた大豪族安倍頼時の娘婿となって江刺郡に移り住み、この地で清衡が生まれた。 経清は、安倍征伐のための「前九年の役」が始まると、初め朝廷軍の源頼義に従ったが、中途から妻の父である安倍頼時に味方して、源頼義、義家父子と出羽の清原武則の連合軍と戦い、厨川の柵で敗死し、経清の妻は清衡を伴って、敵将清原武貞に再嫁した。 後に清原氏の内訌から起こった「後三年の役」で、清衡は源義家の援けを得て勝ち残り、生誕のこの地に戻って奥六郡の主となった。 康和年中(1099年頃)、清衡は江刺郡豊田館から平泉へ居を移した。昭和五十八年、岩手県埋蔵文化センターがこの地を発掘した際、平安時代の住居跡が発見されている。 |
館山公園に咲き誇る桜と、背景に取り込んだ「江刺夢乃橋」を取り込んで構成してみました。公園内に点在する歴史遺構を取り込みたかったのですが、たまたま撮影している時に保育園幼児のみなさんが遠足で遊んでいたので、撮影は遠慮しました。 それにしてもきれいな風景です。いつも訪れて見ている場所ですが、桜の花と夢乃橋のコラボで撮影している私も良い気分になりました。 江刺夢乃橋・・・ 江刺区岩谷堂周辺の館山、向山両岸を繋ぐ江刺夢乃橋。地域住民の念願だったこの橋は、平成11年(1999)の完成。鉄筋コンクリート製アーチ橋の最高部は川から約50m、市街地と焼石連峰の山々を一望することができる。橋の周辺にはえさし藤原の郷など観光スポットが点在。 |
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