さらに藩政時代の記録によると、この部分の石垣は地震によって傷んだため、元禄16年(1703)と宝永2年(1705)に石垣の修復を幕府に届け出ており、宝永3・4年(1706・1707)に工事が完成していることが記されています。 この部分の石垣は、鑿(のみ)加工により石材が整形されており、本丸の他の部分に比べて規格が揃っています。 トップページで紹介した絵地図は、この石垣案内図から切り出したものです。