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location:uchinome.jpトップ>自然の表情>植物の表情>岩手の一本桜あれこれ>奥州市江刺区・白山神社の桜 |
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二月末のある集会でのことでした。「私の住む江刺区稲瀬地内に一本桜の古木がないのかなあ・・」と話したら、「水先地区の白山神社にあるよ・・」との情報を頂きました。水先地区は家から車で一走りの場所です。いつも近くを通るので白山神社の名前は知ってはいましたが、実際に神社を訪れたことはありませんでした。 天候に恵まれた4月28日、周辺のサクラが満開になっていますので白山神社まで一走りしてきました。北上市に隣接する水先地区は北上川堤防東側にあり、稲作とリンゴ栽培が盛んな地域です。幹線道路から枝分かれした道路を進むと、リンゴ畑の中に白山神社と書かれた柱が見えてきます。 ここから神社までは50mほどあります。最初は広角レンズで周辺を入れての様子、中望遠レンズでの桜の木を中心に据えた様子です。かなり樹高があり、途中から太い幹が枝分かれし、上の方でピンク色の花が咲いているのが遠くからでも分かります。 |
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三照白山神社・・・ サクラの開花する一カ月前でしたが、桜の古木と神社の様子を知りたくなり出かけてきました。周囲は果樹園がありリンゴがあちこちに植えられています。東向きの鳥居の前には、背の高い桜の木と案内看板がありました。樹齢300年、 樹高が17m、根回り5.17mもあるヤマザクラの古木です。 境内には数多くの石碑が並び、筆塚、金華山(元治元年八月七日)、庚申供養(天明六年三月十六日)等々が見られます。案内板を観て驚いたのは、平泉中尊寺境内に鎮座する白山神社から分社されていたことでした。 三照白山神社は、正平年間(1350年頃)胆沢郡百岡村の柏山大和守が、磐井軍平泉郷鎮守白山神社より分霊勧請したことに始まり、以降、柏山氏は基より、近在の民の崇敬を代々受け継ぐことになります。 その後、天正十年(1582年)胆沢郡大林城主柏山伊勢守の家督をめぐり長子伊予守と次子中務少輔が争いました。この争乱のとき、神社は金ヶ崎三ヶ尻村へ遷宮され江刺氏の外護を受けました。 天正十八年豊臣秀吉の奥州統一に際し、征伐に参陣しなかった柏山氏・江刺氏は、ともに領地没収となります。この頃、戦国争乱の余塵で世情不安のさなか、及川弥次右ェ門が当社を江刺郡三照村へ遷宮しました。慶長年中(1605年頃)伊達政宗の四天王、後藤信康が、正源寺台兵部館に入ったとき、領内地を御除地として崇敬しました。 安永二年(1773年)の「風土記 書上」に、白山神社別当御百姓弥次ェ門、社壱間四面東向、鳥居東向、祭神 十一面観世音菩薩(白山比?大神本地)祭日 九月二十八日とあります。 現在の社殿は、昭和三十五年春から三照講中の浄財をもって本殿、拝殿、幣殿の改築・境内整備が進められ、昭和三十七年九月二十八日落慶しました。その後、修復工事を講中によりおこない、平成二十二年十月二十八日に完成しました。神社は、この地に遷座以来、集落の人々の信仰に支えられ今日に到ります。 尚、宮城県遠田郡不動村(現・美里村)の白山神社は、及川九右ェ門が当社より勧請分祀との伝承があります。 別当 及川典雄謹白 (※入り口案内板より) |
三照白山神社・・・ 道路脇と鳥居正面から見た様子で、撮影したのは3月29日のことになります。 庚申供養の他、甲子供養、己己供養と三つ書かれてある石碑であり、天明六年三月十六日の文字がはっきりと分かります。 |
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