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location:uchinome.jpトップ>心のオアシス>遺跡・史跡アラカルト>世界遺産・姫路城を訪ねて>その2 |
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西に門番部屋があり、櫓の正面は連続武者窓の左右に華灯窓、裏面は連双武者窓が付いており、上の櫓の内部は3部屋になっています。 屋根の勾配、軒四方の反転など、全国でもまれに見る桃山時代の華麗な城門と言えます。(※案内板から) |
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菱の門を通り直進すると「いの門」があり、二の丸の区域になります。私達はここで左に折れ、西の丸南門跡と書かれた石垣の間の通路を抜けて西の丸に入ります。 |
西の丸・・・ 御殿を囲むように築かれた300m近い長大な建物は通称百間廊下といい、その右の方の部分は西の丸長局(ながつぼね)と呼ばれ千姫お付きの女性たちが住んでいたといわれています。 その右端の部屋は、千姫が近くの丘にある天神様を拝むために、身づくろいしたり、化粧直しをしたといわれ、化粧櫓とも呼ばれています。 外側の原生林を活かし、自然の地形に合わせて延々と続く建物は珍しいものですが、背後の断崖や狭間を見るとやはり厳重な防備を持つ城郭です。しかし、化粧櫓などの部屋には極彩色の豪華な装飾を施されていたといわれ、御殿が焼失している今、千姫名残の貴重な建物です。(※現場にある説明板から) |
千姫と化粧櫓・・・ 元和三年忠政が伊勢桑名から姫路十五万石の城主となったとき、忠刻も千姫の化粧料として部屋住のまま十万石を与えられ、姫路に移り住んだ。 忠刻と千姫の居館は、西の丸内に本館として中書丸を、桐の門内に下屋敷として武蔵御殿をそれぞれ築き住んだ。これらの建物は、多く豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取りこわした用材を移して建てたもので、桃山時代の立派な書院造りの建物であった。 千姫は、天満天神を信仰し、姫路へ来てからは、西方の丘男山にこれを祀り、毎朝西の丸の長局の廊下から参拝した。このとき、この化粧櫓を休息所として利用した。 忠刻と千姫の夫婦仲は睦じく、姫路に来てから相次いで勝姫(のち池田光政室)、幸千代の二児ををもうけ平和な日々を送ったが、長続きせず、幸千代は三歳で早逝、忠刻も寛永三年三十一歳で世を去った。 この化粧櫓は、中書丸や武蔵御殿がないいま、わずかに千姫の面影を偲ぶただ一つの建物である。 |
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