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西の丸庭園からの景観・・・

化粧櫓見学の後、時間があれば「はの門」を通り天守の下まで行けたのですが今回は断念です。広い西の丸庭園を見ながら入口まで戻りました。ここからの画像は、その時見た様子を撮影したものですが、はっきりとしない部分がかなり多かったと思います。

ページを作成するにあたり、かなりの資料等をネットから集め画像とのすり合わせを行っています。最高に悔やまれるのは、肝心の化粧櫓の様子を撮影していなかったことでした。
多聞櫓 1 西の丸多聞櫓・・・

多聞櫓とは長屋状の細長い櫓のことで、化粧櫓を基点に西へ四つ、さらに南へ四つ、土塀を挟み2つの櫓がある。石垣を割り、西の丸に続く埋門が2ヵ所ある。

案内書を見ただけでは、一見さんである私には良く分かりません。
多聞櫓 2 百間廊下のあちこちに石段があり、非常時の脱出階段だろうなと思います。300mもある長い廊下ですから、万が一戦闘状態になったときは孤立します。

姫路城の歴史を見ると、戦に巻き込まれたことがないと言いますので使用されなかったのかも知れません。

下の画像は、西の丸庭園から見た多聞櫓ですが、同じものかどうかは分かりません。窓がないのが不思議でした。
多聞櫓 3 多聞櫓 4
西の丸南門跡通路 西の丸に入るとき登った南門跡通路です。右側が石の階段、左が石畳ですが、昔も同じ様子だったのでしょうか。昔は石段だったと思います

左側が西の丸庭園です。ここから見る天守群は壮観ですが、工事用の鉄骨櫓が邪魔でした。
狭間 1 白壁のあちこちに見られる狭間です。高低色々ですし、形も四角が多い中に三角のものも見られました。

実際に庭園側から見ると窓が大きいのですが、外壁側は小さくなっていきます。この場所に鉄砲(火縄銃?)を設置し、外の敵兵に銃弾を浴びせるわけです。

弓矢の場合も同様でしょうが、見える範囲がかなり狭いので標的が絞られたと思います。広くすれば、逆に狙われますので熟練技だと思います。

城郭と石垣、壮大で頑丈な造りだからこそ今に至るまで残っています。積み方の種類も色々ありますが、私が好きな見る角度は角の部分です。
狭間 2 狭間と石垣
石垣 1 石垣 2
建物の角にある石落とし、お分かりでしょうか。 西の丸庭園を出て菱の門に戻る途中ですが、天守の方向だと思いました。建物の角に囲われている部分がありますが、外から見た石落としの部分です。

石垣の角の部分にあり、登ってくる敵に石や熱湯を掛ける場所とのことです。その他の画像をチェックすると、石落としの部分はかなり目につきました。
二の丸に続く「いの門」 菱の門から見た二の丸方向に入る「いの門」です。この門をくぐり「ろの門」「はの門」「にの門」をくぐると、小天守・大天守に進めます。今回は門を眺めただけで入りませんでした。

菱の門を出て出口方向に行ったら、姫路城大天守大柱展示場という標識がありのぞいてみました。昭和の大修理の際に交換された築城当時の巨大な柱です。心柱とも言える巨大な柱が、350年もの間天守を支えてきたのですから驚きです。桧や樅の木となっていますが、昔であっても巨木探しには苦労したのだろうなあと思います。

安土城建築を描いた映画、「火天の城」で芯柱を巡っての木材探しが描かれていますが、樹齢1000年の桧は希有なものだと思います。そんなことを想いながら、巨大な柱を眺めてきました。


創建当時の大天守柱・・・

ここに展示しているのは旧西大柱で、この柱は、かって大天守の地階床から六階床までの各階を、もう一本の東大柱とともに些かの躊躇(ためらい)いもなく力強くつらぬき通し、木造の大きく複雑な重層構造を二本の大柱が構造主体となり、一本が百トンもの重量を支えて三百五十年もの長きにわたり大天守を守り続けてきた。

然しその間、両大柱とも明暦二(1658)年(城主榊原忠次)に、柱や土台などの廃朽で床面に高低が生じ、このため大柱の根元を高さ2.4m、柱四面の間仕切り部分を剥り貫き、ここに幅36cm奥行きもほぼ同じ大きさの栂(つが)の角材を挿入し、帯鉄巻き鋲釘止めで固定するという補強工事が行われた。その後、貞亨四(1684)年には、先の明暦二年に行われた修理材の上に補強材を加える工事が行われた。

このように築城後三百五十年を大天守と共に歩んできた西大柱が、昭和大修理(昭和31〜39年)で、柱真に腐れのあることが分かり、取り替えを余儀なくされ、新しい柱に後事を託して、今ここに創建材の資料として展示している。



西大柱のこと・・・

旧西大柱の下方は樅(もみ)材、上方が栂(つが)材で三回床上(下方から14.5mの位置)で二本継ぎになっていたが、全長24.7mにわたり、中心部が蒸腐(むれくさり)を起こし再用不能で今回の修理では、桧材で取り替えることになり、旧東大柱と同様、一本材の柱にすることになった。

ところが、原木を山から搬出途中に折損事故が起こり、修理では元通り三階床上での二本継ぎの柱になった。新しく取替えられた桧材は、下方が岐阜県恵那郡付知町の国有林から、また上方は兵庫県神崎郡市川町笠形神社から伐出されたものである。

ここに展示したのは二本継ぎで使用されていた旧西大柱で、明暦二年渡貞亨四年の修理の痕をはっきりとみることができる。



東大柱のこと・・・

もと東大柱は樅材で、継手なしの通し柱であったが、今回の修理では根元5.4mを台湾桧で根継ぎして再用された。根継ぎのために切断された旧東大柱の根元部(長さ5.4m、太さ横幅95.4cm奥行き幅75cm)には、明暦と貞亨年間に行われた修理の痕跡が旧西大柱と同様に歴然と残されている。


旧西大柱の寸法・・・

総長 24.7m、上柱の長さ 12.4m、下柱の長さ 14.5m (継手長さ 2.2m)、根元の太さ横幅95.4cm、奥行幅 75cm、末径 54cm角、総重量 約6屯。(※展示場にあった説明から)

大天守大柱展示場 1 画像で見ると実際よりも短く見えますが、撮影する方向によることをお断りします。
大天守大柱展示場 2・・・屋根が架かっています。 大天守大柱展示場 3
大天守大柱展示場 4・・・右側根元の方から。 大天守大柱展示場 5
大天守大柱展示場 6 大天守大柱展示場 7・・・ここからは左の方から。
大天守大柱展示場 8 大天守大柱展示場 9

帰りながらの景観・・・

城内に入るときは様子が分かりませんから、先へ先へと進むことになりかなり見落としていた部分がありました。

広大な三の丸敷地を通り、入り口の復元大手門周辺からちょっぴり寄り道です。
復元大手門
大手門脇の石垣、新しいなと思いましたが?。 左側の石垣には通路があり、そこからは内堀を眼下に見下ろすことが出来ます。

各地の城跡を訪れると、一番先に目にはいるのが石垣です。今と違って石を割るための工具や、積み上げる重機も無い時代の作業になります。

石工と称する職人の腕の見せ所だったと思います。私が興味を持って観察するのは、石を割るために開けられた穴がそのまま残っている石を見つけたときです。
展望台から見た内堀 1

大手門左にある展望台から見た内堀の様子です。

姫路城下絵図の説明からの転記です。

天守群が立つ姫山の西方には、西の丸が構えられた鷺山がある。両者を連結し、南側麓に三の丸を設けた範囲を内堀が囲む。その外側には中堀・外堀が巡らされている。

広大な内堀によって、守りに徹底した姫路城です。一度も戦に巻き込まれなかったと言うことも、豪壮で優雅な姿を残している要素だと思われます。

展望台から見た内堀 2 展望台から見た内堀 3
大手門の扉 1 本来であれば一番重要な大手門なのでしょうが、解説書によると・・・、現在「大手門」と呼んでいる大型の高麗門は昭和13年(1938)年に完成したもので、位置や大きさは江戸時代のものと全く異なっています。

下の画像は、重い門を支えている蝶番の部分です。左が外側で、右が内側になります。面白いなと思ったのは、微妙な高低のずれを鉄の輪(今で言うワッシャー)で支えてあったことです。

昔はこのような場合どうなっていたのでしょうか。建築当時の門構えではないのですが、興味をそそられました。
大手門の扉 2 大手門の扉 3
五七の桐の紋 おなじみ五七の桐の紋です。このまま想いを当時に走らせますと、何代目かの城主であった羽柴秀吉の家紋になります。
大手門脇の石碑 姫路城址の石碑と内堀です。ここにある石垣は、建設当時のものだと思います。

満々と水を溜めた内堀と石垣、資料によると内堀に囲まれた部分の広さは面積:内曲輪内の面積が23ha、外曲輪内の面積は233ha(東京ドームの約50倍の面積)と言います。

それにしても、昔の領主の権力は絶対的なものであったと、各地の城跡を見るたびに思い知らされます。平和で平等な生活が当たり前の時代に住む私達にとって、今から一世紀半前に武家社会があったなんて信じられません。

時代劇フアンの一人として、そんなことを思い出させるのが城跡めぐりと言うことになります。
内堀と石垣 道路脇の石碑です。バックに工事中の櫓が見えています。

西の丸庭園から見た天守群、工事中でなければ最高でした。

姫路城について・・・

播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えたことに始まり、その後小寺氏、黒田氏が守ってきました。最近の研究では、築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆のときとする説もあります。黒田官兵衛孝高のとき、彼の勧めで羽柴秀吉が天正8年(1580)西国攻略の根拠地として入城し、翌9年3層の天守閣を完成させました。

その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関ヶ原の役後、徳川家康の女婿池田輝政(52万石)が入封し、慶長6年(1601)から8年の歳月を費やして南の外堀を現在のJR山陽本線付近とする程の大きな規模に城域を拡張し、姫山に5層7階の天守を築きました。

池田氏3代のあと入封した本多忠政(15万石)は、長男忠刻とその室千姫(徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、元和4年(1618)今日に見られる姫路城の全容を整えました。その後、城主は松平氏、榊原氏と変わり、坂井氏が寛延2年(1749)に入封して明治維新を迎えました。

現在、大天守と三つの小天守、これらを結ぶ渡櫓(以上国宝)をはじめ、化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1000m(以上重要文化財)の建造物と内濠・中濠の大部分が残っており、中濠以内は特別史跡に指定されています。


1993年12月、姫路城は法隆寺地域の仏教建造物とともに、ユネスコの世界遺産委員会で我が国で初めての世界遺産に登録されました。

これは姫路城が、我が国の築城技術が昂揚期を迎えた江戸時代初期に造営された最も完成された城郭建造物であり、壮麗な連立式の天守群をはじめ数多くの建物が築城当時のままの美しい姿で今日まで残る唯一の城としてし普遍的価値が認められたものですが、姫路城が長い歴史の中で一度も戦や大きな災害に遭うことなく奇跡的に生き残り、多くの人々の努力と熱意によって保存・整備されてきた結果でもあります。(※頂いた資料・国宝姫路城から)


今回撮影した一番のお気に入り場面です。工事中の囲いがなければと思いつつも素晴らしい景観でした。


初めて訪れた姫路城でした。日本で初めて世界遺産登録された姫路城、訪れている方々には外国人の姿もかなり見えていました。またいつの日にか訪れたいと思いつつも、機会はほとんど無いと思われます。岩手の平泉文化遺産が世界遺産に登録されて、日に日に訪れる方々が多くなっていると報道されています。中尊寺などは、すれ違いが大変なほどに混み合っていると言います。

多くの皆さんに平泉文化の遺産を見ていただくことが地域の活性化と発展につながりますが、反面、今後の課題等も出てきそうです。観光客の宿泊施設の問題、交通状況の不便さ等々が考えられます。3年前の内陸部地震で大幅に減少した観光客ですが、今回の世界遺産登録で以前よりも多くの皆さんが平泉の地を訪れると思われます。

肝心なことは、平泉町民、隣接の市町村、岩手県民の共通の喜びにならなくてはと思います。近くに住んでいつも気軽に訪れている平泉です。地域住民の方々が、訪れる方々を喜んでお迎えできるような接遇の心が大切だと思われるからです。

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