おわりに・・・
江戸幕府藩政時代に生じた気候変動に伴う大飢饉、この時一番の被害者と言いますか犠牲者は、自分たちで手塩にかけて作った米を自分が食べられない農民であったと言います。手塩にかけて育てた米が、ほとんど年貢(税金)の名の下に藩に出さなければならない悲惨な状態、このことから何とか脱却しようとした農民が時の行政執行者に訴えたのが一揆であったと理解しています。
今の恵まれた私達の生活からはとうてい理解出来ないのですが、生きて行くのにやっとの状態で、米を作らなければならない農民の生きて行くための訴えが一揆であった、と今の私達は理解しています。このような命をかけての米作りの歴史がどこにもあったと言えます。首謀者は死刑、分かっていてても誰かが先立ちをしなくてはならない、その先立ちの精三郎が義民として200年後の今に顕彰されているわけです。
うまく言えないのですが、このような尊い自分の命をかけての訴えが、時の藩政執行者を動かして来ていることを忘れてはならないと思います。我が家も代々の農家であり、私で十代目になります。農作業に従事しなくなったのは祖父の頃からでしょうか、それでも祖父は家の周りに試作田を設置し、狭い田んぼの中に色んな稲の品種を植えていたのを覚えています。完全に農作業から離れたのが父親の代からで、私がそれに続きます。
私にもいくらかは農民の血が残っており、義民精三郎の生誕の地を見た時、百姓一揆の話しは他人事では無い思いにつながります。
顕彰碑・・・
史上希な天明の大飢饉が続いた上に、藩の圧政のため、住民の苦しみは想像を絶した。この情勢に堪えかねた清三郎は、一揆の首謀者が死刑となることことを知りつつ、悲壮な決意で地区民集会を開き自ら代表者を引き受け、一七九七年三月七日、藩政の改善を求めて仙台表に強訴の行動を起こした。
これが発端となって、江刺・胆沢・西磐井・東磐井・宮城県北の住民等が相呼応し、その数四万人を超すという未曾有の大騒動となった。俗に言う「仙北十郡大百姓一揆」である。
この騒ぎは五月に終息、清三郎は首謀者のかどで捕らえられ、折居の正覚坊と共に死刑に処せられた。事件発生二百周年に当たり、農民救済のために一命を捧げた義民清三郎の崇高な精神に深甚の感謝と敬意を表し、ご冥福を祈って永く後世に顕彰するものである。
一九九七年三月 伊手史談会
最後の画像は精三郎の生家があった場所で、火災により消失してしまった屋敷跡になります。残っていれば、200年を超す歴史的な遺産と言えますので残念なことだったと思います。
平成15年(2003)新聞記事より・・・
26日午前十一時頃、江刺市伊手字口沢にある非住家から出火、土壁平屋建ての非住家と物置小屋が全焼。軒先のスズメバチの巣を焼こうとしたところ、火が茅葺きの屋根に燃え移ったとのこと。
火元となった建物は、以前は母屋として使われていたが、十数年前から空き家になっていた。この家は、寛政九年(1797)に飢饉や仙台藩の圧政に耐えかねた立ち上がった農民一揆の指導者、義民・精三郎の生家とと伝えられ、二百年以上前に建てられた歴史的な建造物であった。市などの文化財に指定されていないが、地域内で建物の保存計画が持ち上がっていたとのこと。
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