奥州市水沢・鎮守府八幡宮に戻る
ご神木とも言える巨木のスギの木です。その脇に末社がありました。ここ鎮守府八幡宮にはあまり多数の末社が見られません。
黒い石に碑文が刻まれ、弘化三年九月・御崎大明神、金比羅?の大きな石碑が目に入りました。きれいに整備され、日頃の信心深さを感じました。 下の画像は、碑文が刻まれた板を中心に左右の方向から撮影してあります。私が読み取れるのはここまでで、他の石碑等の刻印は読み取れません。
おわりに・・・ 最初にもふれましたが、今回の鎮守府八幡宮を訪れたねらいは、正月を迎えるため正装なった神社の周辺を撮影する事にありました。実際に境内を歩き、落ち葉一つ無いほどには清められた状態にありました。広い境内ですから大変であったと思われます。 今まで鎮守府八幡宮へは五回ほど訪れていますが、神社裏側にある小さな祠や石碑に目を向けないでいました。今回はこの場所にカメラのレンズを向けてみました。 石碑に記された碑文を読んで気がつきましたが、先祖の偉業を大切にしている集落であればどこでも同じような課題に直面します。私達の先祖の皆さんが、家族・集落の安泰や農作業に携わる人達の無事を祈願して、遠方の御利益ある神社に集団で講中を組織し参拝してきました。今とは違い、自分の住める藩領地内ではなく他藩に存在する神社まで参拝に出かけます。無事に帰ってくると、必ずと言うほど大きな石に祈願した神社名を彫りこみ、集落の道路脇に置いて拝んでいました。 戦後のしばらくまでは、集落道路の交差点付近に大小の石に掘られた神社の石碑が見られていました。時代の流れと共に、農地の構造改善による大規模改修、それに伴う道路配置の変化等々で、道路脇にあった先祖達の参拝祈念の石碑は一ヵ所にまとめられていると思われます。私の住まいする集落とて同じ事が言えます。 鎮守府八幡宮裏にある大量の石碑群は、ばらばらななってしまう石碑の将来に危惧を感じた集落講中の皆さんが、自分たちの先祖達の苦労と祈願の偉業に感謝する願いで進めた成果だと思いました。 石碑の碑文から・・・ この石碑は、天保四年(1833)正月十日佐野宿の小路に当地の人々によって建立された記念碑である。以来、代々の子孫達は講中を組織し厚く信仰してきた。しかし世が変わり激動する時代の流れの中、その維持管理について憂慮すべき事態が生じてきた。ここに相談の結果、講中の総意のもと鎮守府八幡宮のご理解を得て、この地に移転鎮座したものである。 平成十七年(2005)吉日 佐野戊辰講 ※石碑の碑文から転記