神社仏閣アラカルトに戻る


         江刺区稲瀬・伊豆観音堂


ウチノメ屋敷 レンズの目 自然の表情 暮らしの表情 ウチノメアーカイブス
岩手の鍾乳洞 岩手の蘇民祭 ほっづぎある記 心のオアシス
ドキュメント      

location:uchinome.jpトップ>心のオアシス神社仏閣アラカルト>江刺区稲瀬・伊豆観音堂

 サイトマップ


江刺区稲瀬・伊豆観音堂・・・

四月末のことでしたが、所属するグループの皆さんと郷土稲瀬の神社仏閣の撮影に出かけた時の記録です。純農村地帯の稲瀬地区は、先人たちの苦労と努力により昔から米作りを中心として栄えたきた地域です。自治体構成の集落単位も二十を超え、各集落には心の拠り所になってきた神社があります。

秋の収穫期には集落をあげてのお祭りが開催され、家内安全と五穀豊穣を祈って行われてきています。今回訪れた伊豆堂観音堂は、別名「内倉沢 伊豆山常楽寺」「伊豆堂観音堂」「駒形神社」とも呼ばれています。


旧江刺郡倉沢村にあたる江刺市稲瀬字小倉沢にあります。東南方に張りだした丘陵の先端部に立地。本尊は馬頭観音。伝えによると坂上田村麻呂の創建といわれ、後に伊豆山浄(常)楽寺として中尊寺末の天台宗寺院になったが廃絶してしまい、天明年間に再建されたとされます。

また、常楽寺はもとは佐野向(もとの地名は寺岡)にあったが、おそらく享保年間(1716〜35)に伊豆堂に移ったのではないかとされています。

明治維新の神仏分離の波を受けて、明治九年(1876)に駒形神社と改められましたが、現在も伊豆堂観音として厚い信仰を集めています。   (※ 探訪 江刺三十三観音を訪ねて    相原康二 著より)


ここでは参道周辺や境内にある石碑を中心に紹介します。最初の画像は、ほぼ正面から撮影した第三番札所伊豆観音堂の様子です。


伊豆堂入り口の様子 1 入り口の様子・・・

この場所は今まで何度となく通っていますが、足を踏み入れたことのない場所です。グループの皆さんと訪れた時は雨模様でした。改めて後日、息子と二人で訪れて撮影したものです。

快晴ではありませんが、桜の花がほころびかけのどかな様子を見せてくれました。
伊豆堂入り口の様子 2 伊豆堂入り口の様子 3
坂道脇にある石碑 1 鳥居をくぐった参道脇にはかなりの石碑が建てられてあります。何とか読んでみましたが、古文書や古い字体に知識がないため読めない字体が多かったと思います。

何とか読めたのは、秋葉山大・・、塩釜大明神、・・山神、馬頭観音塔であり、建立年は享保十一年、寛政五年が読み取れました。

下の祠は参道左丘にあり、・・山神、寛政五年二月に建立されたものでした。
山の神と書かれた石碑があります。 坂道脇にある石碑 1

参道周辺 1 参道周辺・・・

鳥居を通り抜け平地になると、本殿までの参道が整備され案内板が設置されています。そこから先の参道は、杉の木立が神社らしい雰囲気をかもし出してくれます。

参道左の空き地にはゲートボール場が整備されていました。倒れた桜の木がそのままになっており、幹から芽生えた枝が木になり花が咲いています。
参道周辺 2 参道周辺 3
参道周辺 4 静かな雰囲気を感じさせる杉木立の参道です。

伊豆観音堂・・・

当寺院は坂上田村麻呂の創建とも伝えられているが、平安時代後期(一三〇〇年頃)、平泉中尊寺の末寺天台宗伊豆山常楽寺として創建された。

その後老朽により、天明九年(一七八一)現地に再建され今日に至っている。

明治維新、神仏分離の制度により駒形神社と改称されたが、通称伊豆観音堂と呼んでいる。安置されている三十三体の観音菩薩は、元禄十四年(一七〇一)の銘があり京都より勧請されたと伝えられている。

江刺七観音の一つであり、現在江刺三十三観音の三番札所である。三十三年毎に御開帳の儀が行われている。

祭日  四月十七日  氏子  七十五戸

伊豆観音堂保存会
平成七年四月十七日  創建七〇〇年祭記

(※現地の案内板より)


境内の石碑群 1 境内の石碑群・・・

境内には整備された石碑がすらりと並んでいます。その数がかなりのものになります。多いなと思えるのが、天照皇大神で羽黒山・湯殿山・月山となります。聞いたことのある名として、古峯山・金華山・秋葉山・馬頭観音、庚申塔・七庚申となります。

石碑の建立について詳しいことは分かりませんが、書かれてある碑文を見ていると、講中詣りの後に記念として石碑を建立するようです。
境内の石碑群 2 境内の石碑群 3
境内の石碑群 4 境内の石碑群 5
境内の石碑群 6・・・後ろに神馬の祠があります。 本殿と離れた場所に、神馬の立像を祀っている建物がありました。格子戸があり、極彩色の馬の立像です。格子戸の上には・・・奉納 1960年4月 堂新築記念写真 奉納者名が記されています。
格子戸の上には、新築当時の行列の写真が掲げられ、大勢の人の行列が見えています。

格子戸のため、はっきりとした馬の姿は見られませんが白馬です。日光にうまい具合に照らされていたので、格子の中に目を入れてみました。目が入ると表情が見えてくるから不思議です。
神馬の祠拡大 1 神馬の祠拡大 2

本殿 1 本殿・・・

天明元年(一七八一)に再建された本殿、お堂の中には本尊の馬頭観音立像、元禄十四年(一七〇一)に製作したとの銘のある三十三観音像その他が祀られています。

本尊は足利時代の末ごろの製作と推定されています。

入り口両側には、奉納江刺三十三観音霊場、奉納第三番札所伊豆観音堂と墨書された札が掲げられています。
本殿 2 本殿 3
三十三観音石碑 1 11月中旬過ぎでしたが、紅葉がきれいだよという春先の話しを思い出し訪れました。訪れる時期が遅れてしまい、木の葉はかなり散っており紅葉鑑賞にはなりませんでした。

本殿左側にあった三十三観音の石碑を撮影していたら、側面に刻まれた文字を見てはっとしました。
三十三観音石碑 2・・・側面に伊豆山の刻印があります。 彫りの深い印字で、三十三観音 文化五年三月十七日、伊豆山と刻まれています。

晩秋の裏山の通路。

これからのこと・・・

境内の紅葉が期待できなかったので、裏山の通路を登ってみました。春に訪れた時は、通路一杯にカタクリの花が咲き乱れ、足の踏み場が無かった事を思い出しました。カエデの葉のある所を見つけ、逆光線を取り入れて残っている紅葉を強調してみました。右下の屋根が本殿になります。

このページを作成するため、三十三観音を始め知らないことが多いのでネット資料で調べてみました。馬頭観音とは馬を祀るためとばかり思っていた私・・、とんでもない無知であったことに気がつきました。観音様の表情も二つあり、柔和な表情のほかに憤怒の表情があるとは・・・、知らないこととは言え恥ずかしい限りです。

こうなると憤怒の表情がどのようなものか知りたくなるのは当然です。本殿の中に祀られている本尊は、三十三年毎に御開帳と言いますので無理な話しです。近場の観音様巡り等々から資料を得て馬頭観音像を拝見したいものです。また言わずもがなのことですが、農家にとって馬をはじめとする牛などの力が農作業の大きな頼りになっていました。ですから、馬頭観音の石碑を建立することは当然でもあったと思います。

身近な信仰対象としての三十三観音の探訪、どうやらこれからの課題にもなりそうです。

馬頭観音・・・

馬頭観音、梵名ハヤグリーヴァは、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとる。

梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」の意である。これはヒンドゥー教では最高神ヴィシュヌの異名でもあり、馬頭観音の成立におけるその影響が指摘されている。 他にも「馬頭観音菩薩」、「馬頭観世音菩薩」、「馬頭明王」など様々な呼称がある。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。

転輪聖王の宝馬が四方に馳駆して、これを威伏するが如く、生死の大海を跋渉して四魔を催伏する大威勢力・大精進力を表す観音であり、無明の重き障りをまさに大食の馬の如く食らい尽くすという。師子無畏観音ともいう。

他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相である。このため、「馬頭明王」とも称し、菩薩部ではなく明王部に分類されることもある。 また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらに、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされ、六観音としては畜生道を化益する観音とされる。

(※ ウイキペディアより)

                     ページの最初に戻る→