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        奥州市胆沢区・久須志神社


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胆沢区・久須志神社・・・

薬師堂に行くためには、久須志神社の境内を通り過ぎなければなりません。現地の情報に疎い私は、最初に目に入ってきた大きな鳥居が薬師堂とばかり思っていました。しかし、社殿の前にある鳥居の扁額を見て間違いに気がつきました。奥にある薬師堂は神社の形態をとってはいるが、天台宗・中尊寺薬師堂の末寺であることでした。

今回はほっづぎある記程度の画像しかありませんので、「ふるさと南都田を再発見しよう」の記事と現場にある案内板にある記事を転記しました。ページとしてまとめるには資料等が不足しますが、薬師堂の側にあった神社として省かれなかったのでまとめてみました。

トップの画像は、参道を出て境内に入った場所から鳥居を入れて撮影した様子です。


久須志神社・・・

明治4年(1871)旧南下幅村社となる。南下幅地区の粟野善知の耕地整理に伴い、薬師堂の隣に遷座された神社である。そこに合祀されている宇南権現は、現在も元の地の畦畔に石祠が残されている。

                                             (※ふるさと南都田を再発見しよう・・より)

久須志神社 縁起・・・

御利益:
病気平癒としての薬師神、学業、事業としての戦勝神、家内安全、五穀豊穣の農作神、雲南権現としての水神。

勧請:
薬師如来が少名彦命と共に合祀されていた後冷泉天皇の御代、康平六年(1063)九月八日(陰暦)前九年の役に源頼義が戦勝祈願のために勧請(神仏の霊を迎え祀ること)されたと言いつたえられている。

由緒:
明治初年代神仏分離が発布され、明治四年(1871)九月薬師堂(安永風土記記載社)と分離され南下幅村の村社とんり、薬師堂と並列して東向きに建築された。社殿は神仏同床の形で明治四十二年(1909)四月に改築され、往古より薬師信仰と共に遠近者老若男女の崇敬者多く、霊験灼かな産土の神として篤く尊崇されており、現在は南下幅、荻之窪地域の拠り所として崇敬者の総代により護持されている。


久須志神社 1 参道を出た場所からみた社殿の様子。
久須志神社 2 正面左側からの様子。
久須志神社 3 神社前の鳥居と狛犬、案内板を入れてまとめた様子。
久須志神社 4 神社前の鳥居を入れての画像、少し正面から脇にずらしての撮影です。
久須志神社 5 平成十五年に奉納された扁額です。
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