横綱・秀ノ山像
岬の先端部左には力士のブロンズ像があり、太平洋を望んで手を上げています。銘板には「第九代横綱秀ノ山雷五郎像」と刻まれています。ブロンズ像の後ろには、海辺に沿って松の木がかなり生えています。力士画像を拡大すると、海辺の斜面の松はかなりなぎ倒されており切り株が多く見られます。
しかし、斜面から上の平地部分の松は手前の一本は枯れていますが、その他の松はあまり損傷もない上に枯れてもいません。大津波の襲い方、もの凄く関心があります。
大津波をもろに受けて立つ秀ノ山雷五郎関、巨大な花崗岩の上に立ち太平洋をにらむ姿、さすがは横綱・・・、どすこいです。
第九代横綱・秀ノ山雷五郎・・・
岩井崎の園地内には、江戸時代に活躍した郷土出身の横綱・第九代秀ノ山雷五郎の銅像があります。歴代横綱で最も背の低い力士であったにもかかわらず、幕内通算成績は112勝21敗で、6回優勝した名横綱です。
気仙沼出身の第九代目横綱『秀ノ山 雷五郎』は、身長が164cmと歴代横綱で最も背の低い力士であったにもかかわらず、38歳にしてついに相撲力士の頂点、横綱にまで昇りつめた郷土が誇る偉大な力士です。少年時代より怪力豪腕で相撲が大好きだった辰五郎(秀ノ山)は、相撲力士の夢を捨てきれず一人江戸にむかいますが、体が小さかったために、どこの相撲部屋でも門前払いだったといいます。
ようやく同郷の荒熊力之助に拾われるも間もなく追出され、流浪の身となってしまいます。神頼みの日々を送るうち、桐生の高木源之丞に助けられ、庇護をうけて、やっと秀ノ山伝治郎のもとに入門がかなうのでした。その後も、小柄故に苦労しながら、持前の強靭な精神力と練磨によって肉体的な劣位を克服し、天保8年1月入幕、文政11年2月関脇、12年1月大関と進みました。
その間、天津風、立神、石見潟、そして師匠の名「秀ノ山」を継ぎついに横綱免許を受取るまでとなりました。その功績は多くの浮世絵の中に残されています。 (※気仙沼市サイトより) |